機能不全家族で育った私が回復を志すようになるまで

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こんにちは!わん吉です!

今回は自分の目的というかプロフィールを伝えるのも大事だなということで生い立ちから、今考えてることについて徒然と書いてみたいと思います。

こうして過去を振り返れるようになったのは本当につい最近のことで感慨深くもあります。

私の幼少期から今おもってること、ブログタイトルの由来を綴りました。

もしお時間ありましたら読んでくれると嬉しいです。

私の幼少期

私は自分の性格を環境と結び付けて考えることに抵抗があるんですが、自分を語るときにやっぱり過去の経験というのは大きく関わっているような気がします。なので長くなりますが生い立ちから話していきたいと思います。

私の家庭はいわゆる機能不全家族でした。

 

私の幼少期の頃は世間はまだバブルと呼ばれる時代で、父は事業を拡げ仕事に忙しくあまり家にいることのない家庭でした。兄弟の多い私の家にはお手伝いさんが来ていたり、欲しいものはすぐ買い与えられるような不自由のない暮らしをしていました。

しかし小学生に入る頃、バブルがはじけた影響が徐々に家にもやってきて、父の事業は億を超える借金を抱えました。

仕事で自暴自棄気味になり家に帰ると荒れる父。子供には手をあげることのない父でしたが夫婦仲は毎日喧嘩ばかりでした。

喧嘩がはじまったとき、いつも部屋に一人いるとどうしていいかわからなくなり、私はいつも押入れの布団の間に入るか、もしくは父と母の近くまでいってひっそりとその言い争いを聞いていたのを覚えています。

父も母も共に自営業の家に育った人で、そのせいか子供の前で悩みや弱音を吐くことはありませんでした。

父は田舎では大将とあだ名がつくくらいどっちかというと親分肌。

母もどちらかといえば地元では名の知れた家に生まれ穏やかな顔つきと裏腹にどちらかというとプライドが高く弱いところは親兄弟にも見せない性格でした。

そんな父母でしたがある日の夫婦喧嘩で泣いたところを見たことがない母がプツンと我慢の糸が切れたように嗚咽に近い泣き声をあげ父に訴えていたのをふすま一枚隔てたところで聞いていました。

父に対する訴えの中に「子供の面倒を全部私に押し付けて…!」と母が切れ切れに発する悲痛の声を聞いて私は幼いながらに母は私たちの世話をするのが嫌なんだ。困らせることはしちゃいけない。と強く思ったのを覚えています。

喧嘩が絶えなかった小、中、高の学生時代

喧嘩が絶えない環境の中で自分の思ってることというのが言えないような雰囲気が家庭の中で作られていきました。

今日なにがあったか、今日なにをするかなど誰も話さない。今考えると異様な感じなのですが当時は自然とそうなっていて、話そうということ自体が浮かばなかったのです。

そんな中で学校生活の悩みなどがあったのかもしれません。最初に姉が、次に兄が不登校になりました。

特に兄は不登校になってから荒れに荒れ、毎日兄弟や親に暴力や暴言を繰り返すようになりました。家には警察がくることもあり、夜中に病院に駆け込むこともありました。毎日毎日、決して良くなることのないどころか悪化していく現状を前にして、テレビで報道される一家の死傷事件が他人事に思えない日々が続きました。

兄はいつも自分がこうなったのはお前らのせいだと親を責め、暴力を振るいました。

多分、私の中にも言葉には出せずとも、少なからずその気持ちはあったかもしれません。しかし、毎日のようにそう言っては暴れ、暴言を吐く兄を見てるうちに「兄さえいなければ…」と憎む気持ちがありました。

当時の私は学校では笑った顔しか見たことがない、と言われるほどお笑い担当の明るいキャラクター。家ではワガママや不満を一切言わず父から「〇〇は本当に凄いね」と言われては嬉しいとは違う複雑な気持ちでそれを聞いていました。

しかし、内心は兄のように愚痴や不満を人のせいにして散々暴れる姿を見て私はそうなるまいという強い意志がそうさせていただけで心のどこかではそう思う自分を押し込めていただけでした。

苦しかった20代前半

兄が成人を過ぎて一人暮らしを始めることで、ようやく喧嘩がなくなり落ち着いた生活になりました。とは言っても思ってることや悩みは変わらず家庭内で話すことはなくそれぞれが自分のことを隠していました。

私は学生時代から考えることを放棄していて進路からも逃げ続けていました。

自分一人で答えを出すことが出来ず、ただただ目を背ける。

社会人という責任を自分が負える気がせずフリーターになり、人と付き合うことすら責任を感じプレッシャーを感じる度にその重さに耐えきれず逃げる、ということの繰り返しの生活。

そんな風に逃げ続けていた二十歳の頃、父が亡くなりました。

突然の出来事でした。私が父の訃報を受けたとき動揺と同時にとっさに出てきた言葉は「自殺なの?」という言葉でした。

父の死因は自殺ではなく心不全でした。でも、自分の中で父は絶対に心労が死に繋がったという想いが拭えませんでした。

今更後悔したって遅い…本当に自分はどうしようもない。

過去のことを考えることも多くなり毎日毎日同じ悩みを繰り返し考えては絶望していました。次第にコンビニで物を買うなどささいなことも自分で決めれなくなりミスも増え、長く内と向き合う時期に入りました。

当時はわからなったけれど、鬱だったのだと思います。

どん底から一歩すすむまで

生活のためにアルバイトをし、休みの日は疲れ切って一日中寝てる日が続きました。

12時間以上寝たのに日中眠気と疲れでままならない日々。

いったい自分はなんのために生きているのだろうとこれからの日々を悲観しては流れていく景色に飲み込まれる想いがしました。

長い間、記憶にも残らないなにも出来ない日々が数年続いた頃、ふとした帰り道に昔の記憶と共に浮かんできたことが人生の舵の方向を少し変えていくきっかけとなりました。

それは父に対する想いでした。

毎日毎日何年も何年も繰り返される荒れた家庭の中で家族全員がもう普通の生活というものを諦めていました。

けど父だけは違いました。

仕事に明け暮れていた幼い頃は家にいることはほぼなく、借金を抱えた数年こそ荒れていた父ですが父はそこから全く別人のように変わったのです。

その後も知人からお金を騙しとられていたり、新しく雇った従業員からお金を盗まれてしまったり、父の苦労は絶えませんでした。

しかしそんな経験を経る度にどういう心境だったか想像はできませんが父は穏やかに優しくなっていきました。

すぐに自己破産してもおかしくなかった状況をなんとか持ちこたえるように事業を続け、家で兄が暴れる度に仕事をどうにか切りあげ必ず駆けつけました。

仕事のことだけでも手一杯のはずなのに、兄が暴れては駆けつけ話を聞き、反抗期の弟とは交換日記をしていましたした。なにも言わない私にはたまに家にいるときに唯一とれる休める時間を一緒に料理を作る時間に変えてくれました。そして仕事に忙しいときはいつも我慢させてごめんと手紙をくれました。

そんな父を助けることなく亡くしてしまったことに自分自身をどうしようもない、と感じていたけれどある日当時の父を想い

「このまま腐ったら本当に父の人生に意味がなくなる」

ずっとなにもできなかった自分と、もう戻ってこない父の人生を想い今更なにをしようとなにもかも遅い、無駄だ、と思っていました。

でも、ふと父の目線から自分たちの人生を考えてみたのです。

父は私たちが絶望した人生を送るために頑張っていたのか?

そんなはずはありません。

じゃあなにを望んでいたか、なにをすることで父の人生が少しでも報われるか、そう思ったときに少しずつでも進もう、と自分の人生に目的ができたのです。

ブログ名、亀のいっぽの由来

このブログはそんな想いから名前がつきました。

自分にとって腐らない人生とはレールに沿った生き方というのとはちょっと違います。

父が悲しむようなことはしないということ。

自分にとっての幸せを追求し諦めないこと。

この2つです。

幸せになることを諦めて、不幸に酔うことは簡単です。なにもやらずに嘆いていればいいだけだから。

でも父の諦めないで努力する姿、その姿勢が残すものの大きさを感じています。

少しずつでも進みたい。ほんの一歩でも。

いま、私が表現したいこと

私はいまも正社員としては働いてません。結婚もしていない。

それは昔の私にとってとってもハードルの高いことでした。

普通の人になることへのハードル。それは自ら勝手に作り上げていたものだけど今も大きく自分の前に立ちふさがっている。自分の気持ちを正直に話すことさえ、なんでもないことなのに泣いてしまうことが多々あった。

私の兄弟ももう全員が結婚適齢期を過ぎている年齢に関わらず誰一人結婚していません。正社員で仕事をしている人もいません。

この現実を見るとそうは思いたくないけれど環境が人に与える影響というのは少なからずあるということ、押し殺してた感情と向き合うことになりました。

ドロドロした自分、逃げてた自分。

向き合うことは辛かったけど、吐き出して受け容れられたとき、心がすっきりしました。

自分は、縁あって付き合っている人がいます。

でも偶然なのかなんなのか、その人は幼い頃に親からの虐待を受け小中高の義務教育を一切受けていないという生い立ちを持ってました。

育った環境はまた違うけれど、その人も私も同じように「普通」に対する自分との分離感が高い。

でも私たちはその想いを共有することで少し強くなれました。

もしかしたら私たち二人だからできることもあるかもしれない。

同じ境遇の人に幸せのカタチを示したい

もしかしたら今まだ以前の私のようにどうせ無駄だと人生を諦めかけている人がいるかもしれません。

でもそういう人にまだ諦めてない自分たちの姿を伝えることで残せるものがあるかもしれない。私の父がそうしてくれたように。

幸せのカタチっていうのは人それぞれで決まったものがあるわけじゃない。レールに乗る人生は目的じゃなく手段です。

幸せになることが目的ならその手段はなんだっていいはず。

そう思うと家族の幸せの手段は幾通りもあります。

そう考えられるようになって日々がとても今色づいて見えるようになりました。

幸せを感じる瞬間が増えていった。

 

私はいま結婚はしなくてもいいけど、子供は欲しいなぁとか。

自分のやりたいことで生活できるようになったらなぁ、とか。

少しずつだけどその可能性を自分の中に見出してます。

 

諦めたらその時点で叶うことはないけれど、少しでもその可能性に想いを馳せることが出来たならそれは叶う夢だと思います。

そんな想いをコツコツ発信していって少しでも人に勇気を与えていけたら、人の役にたつ自分になれたら、そんなブログを続けていきたい。

まだまだ模索中ですがそんな想いから「亀のいっぽ」というブログを立ち上げました。

マイペースな自分だけど諦めずに進む。

読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

投稿者: わん吉

楽しさと遊び心を大切に。

「機能不全家族で育った私が回復を志すようになるまで」への2件のフィードバック

  1. 初めまして、私は40代の主婦です。
    主人も同じ境遇で育ち、機能不全家族、
    違いに、親にされたような事は、子どもにはしないと誓い、今では穏やかな日々を過ごしています。ここまで辿りつくには、死ぬ思いで、カウンセリング、勉強、占い、なんでもやりましたが、
    今は、あの苦しみドラマみたいな、不幸な人生両親でしたが、自分の中の自分だけの心の正義を信じて、薬物や依存、我が子に虐待をしないで、やりました。
    今、苦しんでいる人に、私の言葉や手や行動、文で、必ず回復する!と信じて
    欲しいです。苦しみ悲しみ怒り恥ずかしい、全て今の私の宝です。
    一度の人生だもん、あんな苦しみを乗り越えて来たんだ、ビビる事など、何一つない!与えるのは、自分を愛して許して
    大事にする、他人にも同じくしたいです。

    1. マムさん
      コメントありがとうございます。
      同じような機能不全家族で育った方がそのように克服し、穏やかな家庭を築いてるということは大変励まされます。
      自分を信じられるってとても大切なことですね。
      そこにいきつくまで沢山の感情や葛藤があったのだろうと思います。
      私もまだ過程ですが、マムさんの言葉信じて、決して諦めず模索していきたいと思います。
      ありがとうございます。

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