泉谷閑示『「普通がいい」という病』を読んでの感想

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精神科医の泉谷閑示さんの『「普通がいい」という病』を再読しました。過去に心理や精神病についての本は数えきれないほど読みましたがこれは数少ない手元に残しておきたいと思える本です。

なので印象に残った部分を要約を兼ねて書き綴ろうと思います。

角を持った私達

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作者はまず、本書の序文において、こんなことを言っています。

私たちはみんな、ほかの人とは違う「角」を持って生まれてきました。「角」とは、自分が自分であることのシンボルであり、自分が生まれ持った宝、つまり生来の資質のことです。

この「角」は、何しろひときわ目立ちますから、他人は真っ先にその「角」のことを話題にしてきます。動物としての習性からでしょうか、集団の中で「角」のためにつつかれたり冷やかされたりして、周囲から恰好の餌食にされてしまうこともあります。

そんなことが繰り返されますと、いつの間にか「この『角』があるから生きづらいんだ」と思うようになる人も出てきます。

自分が自分らしくあること、その大切な中心である「角」、それを自分自身で憎み、邪魔にして隠しながら生きるようになってしまうと、生きること自体が色あせ始め、無意味なものに感じられるようになってきます。

生きるエネルギーは枯渇し、すべてが立ちいかなくなってしまいます。

「普通がいい」という病 泉谷閑示 p3  「はじめに」より

これは誰にでも思い返せば心当たりがあることかと思います。私も幼少期は趣味についての話でいじられたり、感情が顔に出てしまうことでからかわれたりすることがありました。そうすると、「これは恥ずかしいことなんだ」と思うので次からはそれを出さないように努力するわけです。

また社会的常識というものも幼少期、疑問に思っていたことも繰り返されていく内に慣れてしまって、それを当たり前として自分の中で受け入れてしまっている事というのは無数にあるように思います。

私達が生きる社会で、共同生活を送る上で「多数派を信奉する価値観」や「協調性」を求められることがあらゆる場面であります。

学校生活でも少数が違和感や反対意見を持っていても全体のルールはいつも多数決によって決定されます。

そういった光景を何度もみれば、無意識であってもどこかで「これが求められている、良いとされる価値観」というものが曖昧ながら私達は感じとる。

作者はこういった場面の繰り返しによって個人として持っていた「角」が自然と切除されて「偽りの自分」が形成されていってしまう、と述べています。

本来の自分が抑圧されて出来上がったものであるから、その中を生きるというのは徐々に心身の不調や生きることの無意味さとなって、目の前に現れます。

ストレスで胃が痛くなるといったように心と身体は深く関わり合っているので鬱やその他病気などの身体の不調はそういったある種の心のダメージを教える「身体からのメッセージ」である可能性が高い。

なのでこの病気はなにを自分に告げているのかということを問うことが自分自身の深い変化に繋がるとも話しています。それと共にそのギフトとも呼べるメッセージは一見苦しみを伴う「不幸印」のため、受け取ろうとしない人が多いということも。

私自身も鬱のような状況で苦しんだ時期がありましたが、たしかにそこから自分の抑圧された感情に気付き、縛られた価値観に生きていたと知ったときの解放感はそれに通じるものがあります。

「自分という主体性」を中心に人生を生きていい。

それは生き方そのものを見直すとても大切な時期であると今になって思います。

言葉の手垢を落とす

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本書の中では大勢の人が「角」を削って目指そうとする「普通」の持つ言葉の意味についても言及しています。その言葉にこびりついたイメージ(垢)についても言及しています。

あらゆる言葉から生まれる世俗的な価値観によって縛られ苦しめられてる人は大勢います。しかしそれは実際は曖昧で私達が作り出したイメージの産物でしかないのかもしれない、と本書は思わせてくれます。

クライアントにはじめてお会いした時に「どう変わりたくてここにいらしたのですか?」と尋ねますと、「普通になりたいです」と答える人がかなりいらっしゃいます。

(中略)

「普通」という言葉には、平凡でみんなと同じが良いことなんだとか、「普通」に生きることが幸せに違いない、という偏った価値観がベッタリとくっついています。

つまり、「普通」になれば「普通」に幸せになれると思い込んでいるわけです。

しかし、幸せというものには「普通」はない。

なぜなら、「普通」ではないのが、幸せの本質だからです。

p40. 第二講「言葉の手垢を落とす」より 「普通」について

 

普通というのは、具体的にどんな状態なのか、ということを考えると、標準的な家庭で、仕事も対人関係も上手くいって社会に適応できてる人。というようなイメージがあります。でも、実際深く考えたことはありません。

周囲を見回しても、どんなに一見「普通」に見えてる人でもよくよく深く話を聞くとどこかに闇を抱えていたり深い悩みを抱えているものです。

なんとなく「普通はいいことだ」「普通にやっていけることが幸せだ」と思って目指してしまいがちですがそんなものはないのかもしれない。

言葉の持つ想像上のイメージを追い求めてるだけであってはゴールは見えません。

 

著者は他にも言葉の視点を変えて考えてみることも古い手垢を落とすこととしていくつか挙げています。

例えば

「神経質」→感受性が豊かである。感性が発達している。

「頑固」→自分の考えをしっかり持っていて流されない人。

「我がまま」→「我(われ)がまま」という意味。あるがまま。本来の自分。

このように自分のとらえ方を変えるだけでその言葉の持つイメージは全然違ってみえます。

世俗的なイメージに振り回されると自己否定に繋がり悩みますが、それらは実は個性であり自分の良いところであるかもしれないと自分の視点を変えることが出来るのです。

いったん、自分を取り巻く言葉の手垢を落とし見えてくるものを立ち止まって考えることが必要なのかもしれません。

人間の発達段階

そういった生れ落ちたときの純粋な自分から、「角」をとられることにより出来た「偽りの自分」。

そしてそこから本来の自分を取り戻していく過程を本著ではニーチェの文を引用して例えています。

生まれ落ちてから徐々に「角」をとられ社会に適応しようとする姿を「駱駝(らくだ)」、周囲に敵意を向け自分を確立しにいく姿を「獅子(しし)」、自己がなくなり人生を楽しみ、創造していく姿を「小児(しょうに)」としています。

p126では著者がその例えが載っているニーチェの文を引用しています。

私は君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。

畏敬を宿している、強力で、重荷に耐える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。

何が重くて、担うのに骨が折れるか、それをこの重荷に堪える精神はたずねる。そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷を積まれることを望む。

(中略)

すべてこれらの最も重いことを、重荷に堪える精神は、重荷を負って砂漠へ急ぐ駱駝のように、おのれの身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。

しかし、神殿極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神は獅子となる。精神は自由をわがものとしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。

その砂漠でかれはかれを最後に支配した者を呼び出す。かれはその最後の支配者、かれの神の敵となろうとする。勝利を得ようと、かれはこの巨大な龍と角逐する。

精神がもはや主と認めず神と呼ぼうとしない巨大な龍とは、何であろうか。

「汝なすべし」それがその巨大な龍の名である。しかし獅子の精神は言う、「われは欲す」と。

「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。金色にきらめく有鱗動物であって、その一枚一枚の鱗に、「汝なすべし」が金色に輝いている。

(中略)

わたしの兄弟たちよ。なんのために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。

新しい諸価値を創造すること

それはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目ざして自由をわがものにすること

これは獅子の力でなければできないのだ。

じゆうをわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには、獅子が必要なのだ。

(中略)

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。

小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。

そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。

そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「三様の変化」より 手塚富雄訳 中公文庫

 

社会に適応しようとする従順な駱駝の状態から、自分への不当な扱いに疑問と怒りを持ち「怒り」を発する獅子になる。

そうして取り戻した自己という主体性から創造的遊びに没頭する小児となる。

獅子の状態というのは今まで抑圧されていた自分が吹き出し周囲に牙を向ける状態なので問題行動と見られがちです。

それを「良くない状態」と見て、駱駝に戻そうとする行為を自他ともにしてしまいます。

しかしそれは本来受け止められるべき大切な時期として扱うことと精神科として著者は様々なクライアントを見て感じたそうです。

私自身もこの発達段階の話はまさに思い当たる節がたくさんありました。

20代半ばまでは、自分を取り巻く世界のその場その場で求められる役割を一生懸命に演じ、社会的な理想の自分を目ざして努力していました。

しかしそこから消耗していってる自分に気付き、身体が思うように動かなくなったあたりから自分を取り戻す作業が始まったように思います。

自分の気持ちを感じ楽しむことをしようとしていましたが、最初は自分のやりたいことは分からず、模索する日々。なのでまず自分の感情をただ正直に生きようと徹するとそれは次第に自分を振り回す家庭や、違和感だらけの社会に対する怒りに変わっていきました。

最初は自分がこのまま社会から外れたダメな自分になるような、怒ってばかりのなりたくない自分になるような気がして自己否定が付きまといました。

でも、自分の感覚を信じること。

自分のどんな感情も肯定的に見ることを繰り返している内に徐々に怒りの感情はおさまり自然な状態になりました。

まだ獅子の段階であると自覚してますが、うっすらと今自分のなかに「自分の手でなにかを生み出したい」という気持ちがあります。

それはこのブログもそうですし、それ以外でも「表現する」ということに興味が出てきている。

まだまだ模索中だし、悩みは多いものの、この悩みのなかに本来の自分を取り戻すためのメッセージが隠されている、そう思うとどんな感情も大切に受け取りたいと思うのです。

今回の記事に載せたのは本著のほんの一部ですが、本当にすべてのページがメモをとりたいような著者の実際の経験から得た気付きが書かれています。

まだ読んでない方は是非読んでほしい作品です。


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投稿者: わん吉

楽しさと遊び心を大切に。

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